オ〜ッ君の東京散歩
第7章 浅草界隈(4)
2004.2.8

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はこ

読者の皆さんこんばんは、いよいよ暖かくなってまいりました。調子はいかがでしょうか。
上の写真は、長命寺の桜もちです。クリックすると箱が開きます。
箱を開けると桜の葉2枚に餅一個が包まれている桜もちが現われた。葉には、しっかりとした味がついており、歴史をもつ桜もちの貫禄を感じる。

この桜もちの起源は1691年、長命寺に住み込み、山門脇の小屋で門番を勤めていた山本新六という人が、土手の桜を眺めていてひらめいたらしい。この店の名は山本屋です。

山本屋
桜
明治時代の話。岩倉具視らが、オランダ公使を隅田川の舟遊びに誘った。遊覧コースにはこの桜餅も含まれていた。公使は桜餅など見向きもせず、看板娘のお花に一目ぼれしてしまった。お花は、「けむくじゃらの異人など傍に寄られるのも嫌。」と拒んだが、なにしろ、政府の高官から圧力がかかってしまっては、首を縦に振らざるおえない。泣く泣く生活を共にした。どんな生活だったか記録は残っていない。公使が亡くなったあと、お花さんは近くの寺島村にて静かな余生を送った。
ナナさんの石碑
七
もうひとつ明治時代。1888年正岡子規22歳。この山本屋の二階に下宿し受験勉強をしていた。当時山本屋にはお陸さんという美少女がおって、ひそかに恋文を交わしたらしいが残念ながら結ばれなかった。
参考:考証江戸を歩く・ 稲垣史生・ 時事通信社
そして長命寺には所狭しといろいろな石碑や樹木がありました。そもそも長命寺は、はじめ常泉寺といった。三代将軍家光が鷹狩の途中腹痛をおこし、この寺の水で薬を飲んだところ、けろりと治った。「長命水と名づけよ」という将軍の言葉に、お寺の名前も長命寺にした。
弘福寺
山門
長命寺の隣にある弘福寺。みごとな山門。中国式の三重屋根、末端の反った竜宮門。
ホームラン王の育った野球場
王
日本で最初の少年野球場だそうです。

次回は桜橋を渡って、浅草寺へ向かいます。



オ〜ッ君の東京散歩
第7章 浅草界隈(5)
2004.2.8

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ダイコン

読者の皆さんこんばんは、気温の変化が激しいので、体調を崩したりなさいませんようご注意ください。

桜橋を渡ると、少し高くなったところに待乳山(まつちやま)聖天こと本龍院があります。ここは、夫婦和合・子孫繁栄・商売繁盛のご利益があるそうで、それにちなんでシンボルは二股大根と巾着。 上の写真をクリックすると巾着がでます。1月7日には「大根祭り」が行われ、ふろふき大根がふるまわれるそうだ。

待乳山聖天
待
ここには江戸時代の築地塀が残っている。広重の絵にも描かれているこの塀は関東大震災、戦災に耐えて残った。
築地塀
塀
そして、馬道通りを行き、浅草寺に到着した。ここは、裏口と言うべきであろうか二天門である。ほかの、雷門と宝蔵門は一度焼けてしまって再建されたものであるが、この二天門は幾多の危機をのりこえて、370年前の姿を今にとどめている。二天門の提灯の底にも龍が彫られていた
二天門
二天門
門の横に目をやると、ひときわ高い五重塔が見えます。三代将軍家光が建立した五重塔は戦災で焼けてしまって、現在のものは昭和48年に再建された。てっぺんの九輪は15メートルあるそうで、クレーンを使って持ち上げたそうです。先代の九輪はクレーンの無い時代なのでもっと小さかったのでしょう。
五重塔
塔
次回は浅草寺の境内を彷徨います。


---つづく---

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