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第19章 江戸城外堀の石垣
(1,2)

2004.6.13

周辺の地図(中心が現場です) 

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読者の皆さんこんばんは。江戸城の外堀の石垣の発掘現場が公開されました。

ほんとうは、すぐに発行しようと思っていたのですがいろいろ調べているうちに時がたってしまいました。現在は埋め戻されているらしいです。 TVのニュースで放送されたためか、なかなかの人出でした。

新橋駅からまっすぐ歩いていくと霞ヶ関ビルが見えます。地上36階地下3階。1968年完成。なんと36年も前のことです。発掘現場はこのビルの足元にありました。
霞ヶ関ビル
霞
13時から公開でしたが、新聞、TVで報道されていたので早めに行ったほうが良いと思い、40分前に到着した。
なんと、もう始まっているではないか!早くに人が集まり始めたので前倒しで始めたとのことで、柔軟な対応にあっぱれである。
上の行列は私が終わってから戻ってみた状態で、まだ13時前だったと思います。
今回公開されたのは、虎ノ門から溜池の外堀の石垣で一部は以前から露出していた(左上のやや黒い部分)らしいが今回再開発の工事によりさらに掘ってみたらしい。これは保存されて、ここは地下鉄の出口をでたところあたりになるらしい。
石垣!
石
家康が1603年征夷大将軍になり、本格的に江戸城の築城が始まった。その後1636年まで工事が続いた。この石垣はその1636年に作られた部分だそうだ。さて、これらの石たちはどこから運んできたのだろう? そもそも、武蔵野の地は何万年も前に噴火した富士山や箱根の山の火山灰が堆積してできた関東ローム層という地層でできており、大きな石は少ない。ほとんどの石は伊豆から船に乗せて運んできたらしい。お城の大きさを考えれば使われた石は大変な数になったであろう、よくもそんなに石があったものである。削りだすときはノミを使い、運ぶのは人力であり、船を漕ぐのも人の手による。大変だ。
切り出した跡が洞窟風呂になっているところがありました。

伊豆から運ばれた石たちは小松石と呼ばれるもので、「石屋は自分の家の墓は小松石で作る」と言われるほどの上質なものらしい。
なかでも真鶴産のものは本小松石と言われ今でもひろく使われているようです。そういえば以前、このあたりに釣に行ったような記憶がありますが、魚屋で買い物をして帰ったのを覚えております。
内堀
お堀
これは第2章のときの内堀の写真ですが石垣のカドに使われている白い石ははるばる石の本場小豆島から運ばれた御影石だそうです。

花が咲いた
-10-

ありんこ
撮影時には気付かず、
あとでみたら
ありんこがいた。
(クリックで大)      
ari
 
中庭 i

読者の皆さんこんばんは。
外堀の石垣のつづきをお届けします。
今回公開された部分のほかに、ここ文部科学省の中庭にも石垣が発掘されていて、そちらのほうが規模が大きい、その写真が掲示されていました。こちらは石垣の正面に建物が迫っていて、公開は難しかったのかもしれない。

さらに、石垣の断面の写真もありました。なるほど大きな石のうしろにはこうして小さな石を敷き詰めているのですな。
断面
霞
江戸城の工事は天下普請と称して全国の大名が参加して行われた。石垣を組むのは西国の大名が得意であったようです。特に熊本の加藤藩は上手で他に見られないように幕を張ったこともあるそうです。では東国の大名は何をしたのかというと、お堀を掘る作業をしたそうです。
発掘された箇所はちょうど二つの藩の境界にあたる場所であった。向かって左側が豊後佐伯藩毛利家、右側が備中庭瀬藩戸川家によるものだという。境界近くの石には毛利家を示す矢の印が刻まれております。
境界!
石
この毛利家は、三本の矢で有名な毛利家とはちと違うといいますか、血縁関係は無く、今の大分県佐伯の辺りを治めていた毛利家です。
毛利家は元就の孫の輝元が跡を継いでいましたが、佐伯藩の森高政は、毛利家の人質になったのがきっかけで輝元に気に入られて、毛利を名乗ることになったらしい。
境界
お堀
さて皆さんは戸川家をご存知でしたでしょうか?私全く知りませんでした。今の岡山市のあたりの庭瀬藩の戸川家です。岡山市の東京事務所の方がここを取材されていました。

---19章おわり---

せみの脱け殻が咲いた
-向島百花園-

せみの幼虫は、
夕方地上に出てきて羽化するそうです。

(クリックで大)      
せみ



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